ハワイ パールハーバー2

ガイドブックを事前に読んだら「アリゾナメモリアルは、大型のカメラや望遠は持ち込み禁止です」と、書いてあったので、ズームを諦めて単焦点一本だけ持って行ったら・・・。

なんだよ、ズームOKじゃないの・・・。(=_=)ガイドブックは鵜呑みにしちゃいけませんね。

第二次世界大戦で使われたこの「戦艦ミズーリ」。古兵なのに、湾岸戦争でも使われたことには驚きです。
 
でも、日本側が降伏に応じる条件が「天皇の身分保障」だったことには失望ですね。
 
「これ以上日本国民に危害を与えない」を口にするのではなく、元首の保身が最優先とは。
 
この当時の軍部は、今の北朝鮮と同類だった・・・。
 
 
さて、私がなぜここに来たかというと・・・この戦艦は昭和20年7月17日、18日に茨城県日立市の工業地帯を
 
砲撃しました。弱体した日本軍にはもはや制海権などなく、米軍のやりたい放題だったのです。その逃げ惑う
 
人々の中に、私の母と兄二人がいました。「病院は協定で攻撃されないから、そこへ逃げろ。」というデマが流布
 
され、皆一目散に丘の上の病院を目指しました。ところが、母たちが丘の登り口を目前にしたところで、その病院
 
に砲撃が着弾。デマを信じ、一目散に病院の中に逃げ込んだ人たちは、全員戦火に散ってしまいました。
 
 
母は幼子兄弟(二歳と五カ月)二人を連れていたため移動に手間取ったのが幸いし、紙一重で難を逃れたので
 
す。母からこの話を聞いたのが、父の葬儀の夜でした。九死に一生を得た記憶・・・といった興奮口調の体験談
 
ではなく、まるで他人事のように、無表情に淡々と語っていたのが印象的です。知人、友人の悲鳴とともに、彼ら
 
が虫けらのように目の前でバタバタと死んでいく。自分たちはなんとか助かったが、あれだけの人が目前で亡く
 
なって喜こぶことなど出来はしない。涙もない無機質な母の語り口は、私にとって戦争の悲惨さを増幅させます。
 
その母も数か月後、父の後を追うように病没しました。
 
 
この戦艦ミズーリの砲の照準が、あと数ミリずれていたら・・・今の私も存在していないわけですが、母たちの生
 
死の境目を分けたものは・・・何なのでしょうね。